2014年12月23日
                     
発芽玄米の歴史
 
                                    
NPO法人一億健康の会 理事長 根本武雄

中国 の長江で、およそ8.000年前に栽培され、およそ6.000年前には水稲が栽培され、日本には5.000年前(縄文時代)に長江から渡来したと言われています。
 しかしながら当時は木の実・魚貝類等の食べ物が豊富で水稲栽培の必要性がなく、あまり水稲栽培は広がらなかった様です。3.000年前頃には採集食物が少なくなり、徐々に水稲栽培が広がり、2.000年前には本土の最北端の津軽まで水稲栽培が行われる様になったと言われています。(梅原猛論引用)
 
発芽玄米食の方法
 縄文時代から江戸中期迄、玄米の食べ方は、臼に籾を入れ杵で「どかん、どかん」突いて籾殻を剥離して玄米にした様です。その臼と杵で突いた際、玄米の硬い表皮に傷が付き、夕方夕飯の支度に使った竃で余熱のある上に鍋を乗せ傷だらけの玄米と水を入れ仕掛けておくと8-〜10時間で発芽していた。その発芽玄米を竃に火を入れ焚いて食べていた。これ等は炊き易く柔らかく食べ易く美味かったからです。春・夏・秋は栄養活性が高かったが、冬の場合は低温なので栄養活性は多少低くかったものと考えられます。発芽玄米を食べていた江戸中期以前の武将は骨格も良く頑健な体で有った事を考古学が証明しています。
籾殻剥離の変化
 江戸の中期に効率の良い籾殻剥離方法の土臼(どうす別紙、土臼写真、参照)が考案され大量の玄米を早く大量に作れる事になりました。しかしながら、その玄米は表皮に傷の無いピカピカの玄米で水の浸透が悪く発芽に時間かかり無理に炊いても硬くて食べにくかったもと考えられます。
 又、ピカピカで発芽しない玄米には、フィチン・アブシジン酸の2大毒素があり、消化機関の弱いヒトはフィチン・アブシジン酸の障害から体調不調になるヒトも出た事から臼に玄米を入れ杵で「どかん、どかん」突いて白米にして食べたら炊き易い食べ易い事もあり、白米食が急速に広がったものと考えされます。
 その結果、江戸に江戸患い(ビタミンB1不足の脚気)が蔓延して多数の尊い命が奪われました。当時、中国で禅の修行から帰ってきた禅僧達が小豆(中国では薬豆)を学んで来て小豆を食べる事により江戸患いに罹患しない事が伝えられました。
 その事から私が子供の頃、母に、おついだち(その月の1の日)と15の日には小豆入りの、ご飯を炊いて食べさせられる事が習慣になっていました。
 以上、記述した変化に玄米絶対主義者達は気が付かず現在に至ったものと考えられます。江戸中期以前の傷だらけの玄米は水の浸透が早く発芽の良かった玄米と現代のピカピカの玄米で発芽に時間もかかる玄米とでは似ても似つかない玄米です。

 現代の玄米食の誤り
 玄米の籾殻剥離方法が江戸中期に変化して今日に至っている事に気がつかなかった、有名な人達を次に記述します。
 石坂左玄・桜沢如一・大森英桜・久司道夫・東条百合子、団体では、マクロビオテック・日本総合医学界・日本食養の会等、その他多数団体があります。
 玄米絶対主義者は長寿者であっても80歳代、大半は、60〜70歳代で亡くなっています。玄米食は、栄養価が高く健康食であると言う事で有れば「ごまん」といる100長寿者の大半が玄米食者でなければならないのです。
 しかしながら玄米食絶対主義者は白米を米編に白からなる粕と言っております。その粕の白米を食べ、ビタミン・ミネラルを他の食材から摂り100歳長寿者が「ごまん」とおります。玄米食絶対主義者には100歳長寿者は、皆無に近いです。
 玄米食の長寿者では元日本総合医学会、会長の故沼田勇氏がいます。96歳で亡くなりましたが、側近者の、お話では、80歳代からは発芽玄米を食べていたそうです。













2 するす=土臼(籾すり器)江戸中期から昭和10年代まで続いた、ピカピカ玄米、籾すり機



  
         内部籾すりばん






発芽玄米の歴史